仏教における「利他」と「利己」の概念は、単なる善悪の対立ではなく、「自利利他(じりりた)」という言葉に凝縮される、相互に深く結びついた一体のものです。
「利他」とは何か?
仏教における「利他」は、他者や生きとし生けるもの全てを救い、利益に導くことを意味します。これは、菩薩様が自らの悟りを後回しにしてでも、まず他者の苦しみを救うことを優先する「利他行(りたぎょう)」として最もよく表されます。
観音菩薩様も正法明如来と悟りを開いておられますが、衆生を救うため、より衆生に近い、
観音菩薩のままでおられたとされています。
- 慈悲の心: 「利他」の根底には、他者の苦しみを自分の苦しみとして感じ取り、その苦しみを取り除こうと願う「慈悲(じひ)」の心が不可欠です。
- 空の思想との関連: 『般若心経』に説かれる「空」の思想は、「私」という独立した固定的な存在(利己の根源)は実体がないことを明らかにします。この真理を悟ることで、自己と他者を分ける執着がなくなり、すべての存在が相互に依存し、つながっているという感覚(縁起)が生まれます。この感覚が「利他」の行動を自然に促すのです。
「利己」とは何か?
仏教における「利己」は、自分自身の利益や快楽、悟りだけを追求する行動を指します。これは、仏教が理想とする菩薩の生き方とは対極に位置するものとされます。
- 無明(むみょう)と煩悩: 「利己」は、物事の本質や真理を見抜けない「無明」という根本的な無知から生まれます。自分自身を特別な存在だと見なし、自己の欲望や快楽を優先することで、貪欲、怒り、愚痴といった「煩悩」に縛られます。
- 苦しみの根源: 仏教では、この「利己」の心が、自己中心的な行動や他者との争いを生み出し、結果として自己や他者を苦しめる最大の原因だと考えます。
「自利利他」の真理
仏教が説く「自利利他」は、西洋的な「利他か利己か」という二元論を超えた、独自の概念です。
- 自利の完成が利他を生む: 自分自身が仏教の教えを深く学び、修行によって煩悩を断ち、悟りを開くこと(自利)は、自己の精神的な成長を促すだけでなく、その悟りの光が自然と周囲の人々を照らし、導く力となります。つまり、自己が完成することで、他者への貢献(利他)が可能となるのです。
- 利他の実践が自利を深める: 逆に、他者のために行動すること(利他行)は、自分自身の心を磨き、さらに深い悟りへと導きます。たとえば、他者のために尽くすことは、自我への執着を弱め、慈悲の心を育む修行となり、結果として自己の煩悩を消滅させ、悟りを完成させることにつながります。
仏教としての「利他利己」の結論
仏教は、「利己」を捨てて「利他」だけを実践すべきだと単純に説くのではありません。「利他」と「利己」は、コインの裏表のようなもので、切り離して考えることはできないと考えます。
「自利」がなければ、「利他」を成し遂げる力を持つことはできません。一方で、「利他」の実践がなければ、「自利」は独善的なものに陥り、完成しません。
この二つを一体として捉え、自己の成長(自利)と他者への貢献(利他)をバランス良く、かつ相互に高め合う形で実践していくことこそが、仏教が目指す理想的な生き方なのです。